構造と空間の感覚

挿絵はやたらとチャーミング、


でもそのメッセージはきわめて重い本

構造と空間の感覚 (1976年) (SD選書)

構造と空間の感覚 (1976年) (SD選書)

タイトルからも分かるとおり本書は構造についての本だけれども、そうした構造やそれが可能にする空間と、使用する人間の感覚とがどう結びあうのかに焦点が置かれている。これが1972年に書かれたことは、「もしこれからの人工環境が建築本来の精神を持つべきであるとすれば、その精神は、それを使う人間から生まれなければならない。そして我々は、すべて使う人間である。」という最後の一文からも分かりやすいかもしれない。
以前長谷川氏『建築有情』の中に、国鉄(JR)駅舎のプラットフォームを等間隔に並んでいる鉄骨柱が見事な曲線を描いていて綺麗だった、という旨の記述をしていた。柱とはもちろん屋根などを支えたりする部材であり、構造的観点からは教科書的で一義的な描かれ方が多くなってしまいがち。そんなかで本書は、構造というハード面を扱いながらも、それこそ建築の「有情」を語っているようで考えさせるものがある。例えば、

中世期の野蛮な事物に対して我々は恐怖を感じる。けれども当時の修道僧や、半ば野蛮な騎士たちが、我々の空間と知覚の貧困にギョッとするであろうことも、同様に真実である。

こうした書き方に対して論理的な批判は可能かもしれないけど、身体的にはとても納得してしまう。海外のカテドラルに立ち入ったときの、あの言いようのない昂奮の残滓が今でもそれを物語るように思う。もちろん回顧的になればそれでいいわけじゃない。でも「デザイナーの仕事は、ますます、構造の最適化ということから決まってくる限界のなかに満足すべき内部空間の配置を見出す、ということになった。」という一文は、先に引用した箇所とともに肝に銘じておきたい。要するにこの本は「形のための形」(バブル建築?)に堕する専門的デザイナーの失墜宣言なのである。

本書から30余年、ここで問われている最適化は必ずしも構造のみにかかわるものではなくなっている。そして技術の発展によって構造的解決策が常にいくつかあるような状況であるならば、現状は「建築家」に対して空間感覚の鋭敏さをその選択によって問うような時代になりつつある、ととらえることはあまりに楽観的(?)だろうか。あるいはそうした楽観的視座を取る間に「建築家」の座はすでに「構造家」にとって代わられているのかもしれない。ともあれ現在「建築家」を考える上で参考になりそうな一冊。