エンヴァイロメンタルデザイン

エイモス・ラポポート氏による『文化・建築・環境デザイン』は「環境問題」の話ではありません。

文化・建築・環境デザイン

文化・建築・環境デザイン

帯の文章にヒリヒリする。

建築家の好みや直感だけで、ほんとうに住みよい環境ができるのか

ごもっともだ。「建築家」(モダニストかデザイン莫迦、あるいはデザイン莫迦モダニスト)は自らの属しない地域の文化に無頓着で「自らの考える進歩」を押し付けてしまったがためにその文化を破壊することになってしまった。これはいわゆる機能主義批判というか、「意味」という時に最も重要な機能を排除してしまう建築家の行いを戒めるものと読める。じゃあどうすればいいんだろうか。
氏のスタンスを訳者があとがきでまとめてくれているのでちょっと引いてみたい。

  1. 建築行為における構想はそれを支える証拠に基づく必要があり、それは歴史的に長い時間と空間的に広範な地域から集め。また広く他分野の研究を参照する必要がある
  2. 研究の成果は単に積み上げるものでは不十分であり、理論化・モデル化することによってはじめて利用可能になる
  3. 環境デザインは、つまるところ人が下す選択の集積であり、ある文化集団による選択の集積がその文化景観を形成する
  4. 人々の選択には必要や機能よりもむしろ願望や隠れた意味が重要であること
  5. 建築家が環境デザインの最後まで決めてしまうのではなく、ユーザー自らデザインできる余裕を残しておくオープンエンド性が大切

なるほど。でも「都市はツリーじゃない」といった40年前のアレグザンダーとどう違うんだろうか。
ラポポート氏は文化の構成要素を抽出してその質をプロフィール化すべきだと言っているように思えるのだけど、そのバロメーターというか価値基準は一体誰のものなんだろうか。要素の抜き方、証拠の立て方は「好みや直感」からどれだけ自由になれるのだろうか。あとこういう議論を聞いて常々思うことは、今まで誰も住んでなかった(でもこれから開発される)土地は分析の対象から外れるのだろうか。氏の構想の背景にはおそらく「ユーザー」なる観点をどう組み込んでどう理論化するのかという意図があるように思えるのだけど、これってポストモダニストによるモダニズム批判の焼き直しなんじゃないの、というのが率直な疑問。なぜ今かと。
ただあくまでもこの本は氏の研究の概要をまとめたものらしいので、多分別に膨大に個別具体的な研究データがあって、そっちのほうこそ重要視されるべきだと信じたい。