トリッキーにすぎる

今日は年明け初授業でゼミ発表。マンガ表現学とファッションについて。今日はその一コマのみ。

ファッションの発表をいろいろ聞いていつも思うのだが、ファッション史における単線的な変化を想定することの有効性はあまりないのではないだろうか。モード自体が長短の反復に基づく現象であってそれ以上のものではないと決めてかかった方が面白いと思う。こういうのを起源と始源の違いというのだろうか。あるいはメタ・レベルから言説の重層性に着目していかなる起源が想定され、それがいかなる影響をもたらしたのか、という点を論じるとかも考えられるのではないか。通時的文脈から共時的なモードのワンシーズンを取り出すのならば、そのショーの政治性に目を配ると面白いかもしれない。

で、それに関連して。去年の暮れに2006春夏トーキョーコレクションが開催されたようだ。ショーの様子を掲載した雑誌をペラペラ見ているとこれは別に東京じゃなくてもいいように感じてしまう。クレジットの名前に日本人が多いということでようやく区別できたくらいだ。でも、とふと思って考えてみるとそもそもモードにおける「日本的なもの」などキモノの平面性に端を発すポワレ以降の流れに取り込まれて日本という地域を超え出てしまったように思う。つまり地域性はモードという機構自体に取り込まれてしまうのではないか。そう考えてみると必ずしも日本的なものがトーキョーで、フランス的なものがパリで、イタリア的なものがミラノで・・・という構図は避けるべきで、あくまでもその開催地ごとの政治性を俎上に乗せるべきだろう。例えばトーキョーコレクションにおいて考えるならば、日本でのモード批評の行いにくさをポイントに持ってくることもできるだろう。

先生が発表者の方に勧めていらっしゃった鷲田清一『モードの迷宮』はやはり必読だと思う。