物語の「建築」

ソフィーの世界』はただ中高生向けの哲学小説というだけではなく、そのプロットにおける「建築」に関して思うところが結構多い。

A:ソフィーとアルベルト・クノックスの位相
B:Aを物語として読むエルデとAの著者のアルベルト・クナーグの位相
C:AとBを物語として読むわれわれとその著者ゴルデルの位相

ソフィーの世界』はサルトルまでをカヴァーするのだが、それ以降はこの「建築」自体が語っているように思う。クナーグによってAの位相に抑圧されるソフィーとクノックスは自らによってBの位相に上がろうとのぞむ。しかしこれは「そうのぞむ二人」すらBの位相で抑圧するクナーグによって描かれている。こうした点をフロイトになぞらえることはできるだろう(実際本書ではフロイトの項がある)。

最後にはソフィーとクノックスはAの位相を抜け出してBの位相に「侵入」する。同時にこれらの位相間における移動はAからBのみならずかなりの部分われわれの相Cにまで及んでいたりする。こうした内側から筋を破壊していくという作業を「構造主義ポスト構造主義」的な読みとして成立させるのもありだろう。そして実際こうした読みをほのめかすような語り方もなくはない。

可能態としての読みの可能性はもちろん読み手であるわれわれにゆだねられている。こうしたテクスト(建築)観は実際現代建築にも見られたりする。つまりあらかじめ決まった機能を排除し、いかようにも使うことができる、というような。そしてその可能性を住まう人、使う人にゆだねるというような。そしてこの建築はあくまでも建てられている。そして例えば製図台を買えなくてキッチンで図面を描いてコンペに勝った人の作品とかに見られたりもする。ただ批判も多い。