生きられた某
多木浩二『生きられた家』を読む。
- 作者: 多木浩二
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2001/02/16
- メディア: 文庫
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このような擬人体的建築観に関して、その視座をそのまま都市へと移し変えてみる。とするとかつてのような五体満足な都市というアレゴリーをそのまま現代の都市へと当てはめるのは難しい。マクルーハン以降電子メディアは都市の中枢神経系にとってかわったとされる。今や都市は身体的なアレゴリーではなく、神経剥き出しのなにか、という言い方の方がいいかもしれない。「神経系都市」とはこのことを言うのではないだろうか。もはやかつてのような「暗部」は無い。都市のいたるところになにかしらの無気味な雰囲気が立ち込めるようになるのも現代の都市に見られることだろうし、今読書会でやってるヴィドラーの論旨もそのあたりをポイントにしている。どこかを基点にして遠近法的に都市を見るだけではなく、いたるところが等価値になっている状況において、都市の内外をいかに規定するか、というのがポイントなのではないだろうか。
で、こうした論点が「神経系都市論」に存在するとして、その上で「生きられた都市」という状況も想定してみる必要がある。それこを論点が宙に浮いてしまってはいけないので。
またもや漠然としたメモ。