生きられた某

多木浩二『生きられた家』を読む。

生きられた家―経験と象徴 (岩波現代文庫―学術)

生きられた家―経験と象徴 (岩波現代文庫―学術)

ざっくり要約してしまえば「生きられた家」とはそのまま住み手によって生きられる家であり、記憶によって彩られる家である。ただ話はそんなに簡単ではなく、そこには集団としての慣習によって形作られる部分や住み手の無意識的な手つきによって形成される部分も包摂される。例えば日本ではかつて家具とは一時的に存在し、その象徴性によって部屋の役割が変化した。ご飯を食べるときはちゃぶ台を出し、寝るときは布団を敷くというように。そしてこれがさらに簡素になれば移動民族のようなポータブルハウスへと変化する。ハイデガーのいう建てることと住むことの一致とはこのことを指しているのだろう。そして彼によるならばわれわれはいまその乖離状態にある。要するに故郷を喪失しているのである。

このような擬人体的建築観に関して、その視座をそのまま都市へと移し変えてみる。とするとかつてのような五体満足な都市というアレゴリーをそのまま現代の都市へと当てはめるのは難しい。マクルーハン以降電子メディアは都市の中枢神経系にとってかわったとされる。今や都市は身体的なアレゴリーではなく、神経剥き出しのなにか、という言い方の方がいいかもしれない。「神経系都市」とはこのことを言うのではないだろうか。もはやかつてのような「暗部」は無い。都市のいたるところになにかしらの無気味な雰囲気が立ち込めるようになるのも現代の都市に見られることだろうし、今読書会でやってるヴィドラーの論旨もそのあたりをポイントにしている。どこかを基点にして遠近法的に都市を見るだけではなく、いたるところが等価値になっている状況において、都市の内外をいかに規定するか、というのがポイントなのではないだろうか。

で、こうした論点が「神経系都市論」に存在するとして、その上で「生きられた都市」という状況も想定してみる必要がある。それこを論点が宙に浮いてしまってはいけないので。

またもや漠然としたメモ。