トレイン・トレイン

昨夜も飲み会。終電で向かい始発で帰る。のっけからカラオケというなかなかのハイテンションさ。

電車の存在は近代以降の時間‐空間概念にかなりの影響を与えている。物理的な距離が近いところでも鉄道路線、特に鉄道各駅付近にある遠くのところの方が感覚的に近い感じがする。さらに時間の観点から言うならば、「終電までに」という感覚が1日の終わりに存在する最大公約数的な決まりごとになっている。そして「終電までに」が「始発で」という妥協へと変化するプロセスのうちに電車依存率の再確認に対するモーメントが潜んでいる。語の強い意味でのモーメントがしめすように、連続的に存在する積層する諸位相(モーメント)を気づくきっかけ(モーメント)をそのプロセスは孕んでいる。

こうした表裏一体の時‐空間概念を気づかせ、皆が生きる必要にかられた時間性に強い否を唱えたのがベルクソンだったのだ、ということを始発のよどんだ車両のなかで思っていた。本当に「澱のような」という形容がぴったりである。もちろん僕も含めて。