明治はモダンだが「明治村」は

sakakibara19842006-03-13

実家帰ったときに行ってきました、明治村

あの非常に広い敷地内に60近い建築群がひしめいている様子はすごいの一言。1区から5区まであって5区の一番奥にライトの「帝国ホテル」がある。おびき寄せる感満載。洋の東西を問わず明治期に建てられた建築で取り壊される寸前のものをサルベージするというのが初代館長谷口パパの意図(だろう)。

近代のそれも日本の尺度でいう「明治」に焦点を絞って脱領域化するというポイントが孕む理想化する主体の問題、そこから自動的に流れ着く大正村・昭和村の存在などもあの不人気さをみたら吹き飛んでしまう。ただ、少し論点をずらして「入れ子式の展示会場」という形態に関して着目してみる。すると明治村という全体に蔓延する「理想としての明治」という前提と建物の内部において明確に距離を取らざるを得なくなる。それは劣化した家具群や奇妙なまでに新しい什器が為す外との不均衡などに表象されるだろうが。いきおい洋の東西間でのズレもあいまって、そうした距離は多層的なものとなる。ある時期に特化してみる、それも日本という「本邦」における明治期を、という二重にモダニスティックな施設が明治村であり、ノスタルジアのための距離感の設定をおそらく無意識的に潜伏させ、その距離感がただのズレとして見えてしまうという無気味さや、その装置としての明治村自体が人気薄(平日に行ったからかもしれないが)という現実は、どことなく非‐モダニスティックだなという印象だった。ポストモダンとはまたちょっと違う現代性があるような気がする。