そういえばひろば

以前広場について発表したとき「日本に広場はあるのか」という旨のご質問をいただいたのだがそのあたりについてちょっと思ったことをメモしておく。

何でこのタイミングなのかというと、こういういきさつがある。最近うちの学校の新しい棟の近くの食堂が改装され、それに伴って工事関係の駐車所として区画されていた場所がポコッとあいた。駐車所といっても結構広く、野球のダイヤモンドが入るくらいの大きさがある。で、昨日その食堂にご飯を食べに行くときにふとそこが広場っぽいなと思ったのだ。

広場とはざっくりと定義してしまうと以下のようなポイントが挙がる。①建物に囲まれている。②広くて何もない。③ここに建物が建つことはないだろう、とされている。これは僕自身が思いついたのだが、肝心なのは③である。当たり前といえば当たり前なのだが、建物に包摂された空間であろうと広場とされていようと、あくまでも空間である限りそこは一定の建設用地たりうる可能性をもつ。そうした可能性を剥奪され、そこに暫定的だけども絶対的な無(ここで②がからむ)がおかれたときそこは広場となるのではないだろうか。そして日本において広場が存在しないのは土地に対する商業的観点からのアプローチが優勢であるということがいえるようにおもう。

こうしてみると、暫定的に開けた場所が広場っぽく思えてくるのには、そもそも広場に備わっている可能性が延期された形で投擲されたままになっているということもできる。ここで広場の可能性とはそうした建設への可能性の強度の問題へとスライドしていくのではないか。

ところで、こういうこともいえる。日本以外にも広場が存在しなくなる、と。

要するに建設可能な土地には片っ端からビルたてればいいじゃんという商業性が優勢なところにはもはや広場は存在しない。これを日本に当てはめるならマンハッタンとかベルリンにも広場がないと言うことになる。僕はそうだと思う。というよりもそもそも明確な(イデア的な、とかでもいい)広場はどこにも存在しないといってもいい。だからマンハッタンにも広場はないだろうし、ベルリンからもそろそろ広場は消えるだろう。

ただそこに残るだろう広場の残滓は、その発展する土地とのコントラストでより不気味なものになるだろう。「みんなの場所」という根のない共通了解が建設のコントラストでいつのまにか抑圧され、そこが広場であるという不思議な現状(宙吊り、とかでもいい)を改めて鑑みたときに、葦ほどに脆弱な「共通了解」としての「共同性」が不気味さを喚起するのではないだろうか。


と思っている。それにしても「不気味なもの」(フロイト)という概念は無気味。今度深々とこの概念の使い方を注意して考えてみたいと思う。