ダンディーな人たち

今日は三限の演習のみ。ルソー『エミール』の「サヴォア助任司祭の信仰告白」を読むという授業。啓蒙主義に影響を与えながらロマン主義にもルソーの影を見ることが出来る、というような大きい山としてのルソーを原書で読みたいということもあり出席。

カチャーリ『建築とニヒリズム」を読みはじめる。

Architecture and Nihilism: On the Philosophy of Modern Architecture (Theoretical Perspectives in Architectura)

Architecture and Nihilism: On the Philosophy of Modern Architecture (Theoretical Perspectives in Architectura)

『必要な天使』の岡田さんの解説を読みながらロース解釈を改める。「装飾は罪悪である」という彼のステイトメントを単に合理主義の顕現として解釈するということではもちろんない。過去の遺産や、素材、そして職人の伝統という異質な要素の間で倫理的・弁証法的な対話を生起させるような建築言語を使用し、それを単一の言語へと統制することなく開かれた状態で呈示するべきである、というように。おそらくこの先にベンヤミンが言うような「抑圧された過去の救済」に対するモティーフがあるのだろう。

おそらく彼は「近代」という時代に対して非常に敏感であったのではないだろうか。こうした文脈のうちで彼の「ダンディズム」を理解するべきだろう。何が起こり、何が問題かを見極めた末での「装飾と罪悪」であり、これをリテラルに解釈するとロースの建築を見て「あるじゃん、装飾」ということになる。まだ読み込みが足らないが。大島さんの『スクォッター』なんかも参照にしながらロースを軸にしてカチャーリを読み、近代性の問題でベンヤミンをカチャーリ・ヴィドラーらへんをあたってみようかと思う。うまくいくかはわからないが。