止揚しよう

フンデルトワッサーのシンポ、気づくの遅すぎた。無念と言うほかない、のだけどやることやんないとなという感じもするのでプラマイゼロ。

ヘーゲルの件はやっぱりアグリーしかねる。読む僕に先入観があるからだろうけど弁証法のシェーマがかなり色濃い。即自としての建築、対自としての彫刻、アウフヘーべして詩に至るというある意味シンタックス的なラインでの芸術史が一方にある。他方にセマンティック的な意味での建築史における弁証法がある。これは以下の通り。

つまり精神として自立存立する人間に伴う目的を象徴する形でしか表し得ない象徴的建築が即自。対自は古典的建築、つまり合目的的で合理的な、それでも精神を欠いてしまっているもの。ここまでは分かるのだがその二つをアウフヘーべしたロマン的建築というものが具体的にイメージしづらい。象徴的建築で例に挙げられているのはこれ

ピラミッド―巨大な王墓建設の謎を解く

ピラミッド―巨大な王墓建設の謎を解く

ピラミッド。この本読むとピラミッドが作れます。

そもそも「精神」に関してはミースにもばっちりカブる話だが建築の文脈における「精神」論はヘーゲルが正面玄関だとしたらミースはある意味裏門だと思う。戦略的だし。この話はちゃんと考えないといけないのだが。

とりあえずレジメっぽくするために包括的に概念を紹介しようと思うのだがこれを参考にしようと思う。

言葉と建築―建築批評の史的地平と諸概念

言葉と建築―建築批評の史的地平と諸概念

あくまでも注意深く。とりあえずヘーゲルに関してはアウフヘーべの際の媒介項が何かを考えてみようと思う。