おそらく次のような旨のエントリーは前にも立てたと思うが今月末の発表のためのブラッシュアップに向けて繰り返しメモしておく。参考は八束論文。

ミースの建築におけるモンタージュの存在はイメージ戦略のみならずモダニズムの根幹にかかわる問題を孕んでいる。ことは次のように前提される。つまりそこで起こる出来事やものが一方にあり、これを支える舞台つまりフレームが他方にある。これはそのまま構成要素と枠組みと言ってもよい。そしてミースの場合フレームが「ほとんど何もない」と形容される(ユニバーサルスペース)わけだが、こうした文脈において前者と後者は分離され、選択された後者にそうした性格付けがなされる。

しかしむしろポイントなのは「出来事・もの」と「舞台・フレーム」の弁証法のあり方であって、それらのどちらかではない。このように言う前提にはミースのモンタージュにおける、モンタージュされる彼の建築(もの)やモンタージュされる窓からの風景、あるいは外を歩く人々(出来事)が同等視されているのでないかということがある。ミースの外部への対峙法はこの種のものであり、ここに彼の建築の居住困難性の原因がある。

等価である構成要素とそれを縁取る枠組みとの弁証法においてこうした概念としての枠組みは実体化されるというパラドックスを抱える。ところでこの際の図/地が何に当てはまるのかという問題もパラドックスを抱えている。これは近代都市の抱えるそれと同質のものであって、ここに冒頭で触れたモダニズムの根幹にかかわる問題がある。

前者のパラドックスのヴァリエーションがチュミの「ラ・ヴィレット」である。彼の場合コンセプトが前に出てしまい実体としてのグリッドとコンセプトとしてのそれとが全体的に弛緩してしまったため失敗とかよく言われている。だからむしろ「神は細部に宿る」というなぜかミースの言葉になっている格言をミースに見出すとしたら、チュミとの差異にこそ見出されるべきではないだろうか。