レディ・メイドとミース

ミースのはなし。

バルセロナ・パヴィリオンはレディ・メイドとの近接性に関して語られたりする。曰くレディ・メイドの便器(デュシャンです)なんかは「像」と「物質」が同時に現れるということから考えられる。「同時に」とはいうものの、そこには微妙なズレが遅れとして出てくるのである。僕が阿呆の一つ覚えのように「物質性」と呼んでいるところとはこのズレを契機として出てくるものだと言える。

これがミースと何で近いのかというと、「像」と「物質」とはいわば「表象」と「存在」と言い換えることができる。ミースに関して自らの原理を体現することが彼の至上命題だったと考えると、この「表象」と「存在」との一致は目指したいところだったのではないかと思うのだ。

議論はここからコラージュへと飛んだりするのだが、ちょっと立ち止まってみたい。この「表象」と「存在」との一致を少し便宜的に図式的に考えてみたいのだ。ここで「表象」の項には平面図や写真が入るだろうか。他方「存在」の項には建築それ自体が入りそう。ではこの二者をつなぐものは何かと考えると、ミースの考え、と直接いいにくいから「ドローイング」(カッコつき)なんかを当てはめてみてはどうだろうかと思う。「ドローイング」という現場でも描きうる、より行為に即した図面を媒介項として考えてみたい。

このパヴィリオンに関してミースの現場でのちょっとした変更はいくらかなされていたように思う。現場に立ち、自らのスケールでもって、自らが立てるものを見、平面図とは異なり一つの面(あるいは細部)として焦点を当てる行為に対して「ドローイング」というような定義ができるのではないか。物質(材料)を物質(マテリアル)として見ながらも、同時に素材としても見るというような。平面図通りのミース空間をミース自身のまなざしが裏切るような中心性を持っているようにも思われる。そのとき「ドローイング」という考えが鍵になるんじゃないか、と思う。

と、ちょっとふつふつと考えていることを断片的に書いてみる。あやしげ。