アヴァンギャルドなミース

1910年代後半から1920年代のミースはかなりアヴァンギャルドだった。かなりさっくりと図式化して考えてみると、1919年「ノーヴェンバーグルッペ」(「11月集団」と訳したい)→1923年「G」となる。前者はベルリンの前衛集団で(2、3見た紹介サイトにはミースのクレジットがない)後者はハンス・リヒター、エル・リシツキー、ヴェルナー・グレーフらと一緒に活動していたらしい。1921年にはリヒターの紹介でドゥースブルフに会い、彼を通して「デ・ステイル」との交流がある。ここで多分モンドリアンとかベルラーへにあっていると思う。

第一機械時代の理論とデザイン

第一機械時代の理論とデザイン

この本の最後のほうで、バンハムは当時のドイツにおけるミースの位置に関して触れている。

アメリカとの関連で見てみると、ベルラーへが10年代にアメリカに行ってライトの空間性に影響を受けたことがポイントになってくる。実際彼は著作と実作でそれを示している。ミース自身ベルラーへからの影響は認めているのでここは見ておこう。あと17年にはベルリン・ダダがマンハッタンにあるバーナムの「フラットアイアンビル」を機関紙『新人類』の表紙にしている。

ミースに話を戻すと、「G」では「ガラスのスカイスクレーパー」「コンクリートオフィスビル」「コンクリートの田園住宅」を機関紙『G』に載せ、文章も残している。ミースが文章を寄稿した雑誌としてはこれと、あとは1922年にタウトが創刊した『ヒューリヒト』が挙がる。後者にはガラスについて書いている。ちなみにこのあたりの文章はこの本で読める。

世界建築宣言文集 (1970年)

世界建築宣言文集 (1970年)

ミースはこの後の1925年に「リンク」という集団に属すことになる。時期は違うがグロピウスとかタウトとか当時のベルリンの有名どころの建築家が集まっていたらしい。「G」では徹底的にフォルマリズム(とりわけ表現主義新古典主義)を批判しており、おそらくこれはグロピウスはじめバウハウスの教条化しつつあるところへと矛先を向けていたと考えることができる。ただ彼自身の当時のプランを見てみるとどうもうなづけないところがある。この辺は言説でカバーしたのだろうかと推測すると、当時の彼の説得力は案外このアヴァンギャルドたちとの距離のとり方にあるのではないかと思う。

というのは完全に感化されるわけではなく、入会や脱会というポリティカルな態度表明をうまいこと利用していたのではないかなと思うのである。そのうえちゃっかりパブリシティも戦略的に使っているわけだから侮れない。グロピウスとくっついたり離れたりするのは結構アンビバレントで判断しにくい。実際ミース自身後年校長になっているし。ちなみにモホリ=ナギとはあまりうまくいってなかったらしい(あまり関係ないが彼の奥さんにミースはナチがらみで散々こき下ろされることになる)。

後年やたら静かなミースがこの辺の過去をはぐらかしながら淡々と語る様は読んでいていやーな気分になる。