トキヨ

今日の朝東京から帰り、ねむーい中で学校へ。

東京では表象文化論学会の発表がメインだった。ピラネージ、丹下・黒川の有名性、降霊会の発表を聞いた。屋台骨を見ているようで面白かった。

美術館もいろいろ回った。ちなみに以下挙げる書籍は展覧会と特に関係ないです。

Bill Viola

Bill Viola

ビル・ヴィオラ「はつゆめ」

ルネサンスからマニエリスムの絵画から形式を借りて、人間の動作を超スローモーションで流す。水平性と垂直性との交差(「クロッシング」?)や、浅い奥行きでの水平性が目に付いた。他にも間隔をあけておかれた複数の布に両側から映像がプロジェクトされるものがある。多層化し奥の方の布へと次第に拡大していくイメージが眼前で空間的に認知されると、さもイメージを離れてそれ自体が一つの実体と化すようで気持ち悪かった。

あとは

にほんの建築家 伊東豊雄・観察記

にほんの建築家 伊東豊雄・観察記

伊東豊雄「新しいリアル」

きちっとしたグリッドを歪曲し、三次元的に組み立て直すことで新しい空間が生まれる。こうしたグリッドを「エマージング・グリッド」と呼ぼう。とのこと。バルモントが噛んでるっぽいなと思ったらきっちりインタヴューまで流れていた。

Serpentine Gallery Pavilion 2002:Toyo Ito With Arup

Serpentine Gallery Pavilion 2002:Toyo Ito With Arup

図像がないとどうにも説明のしようが無いのだが非常に華やかだ。こうした性格は何も伊東に限ったことはなく様々な建築家に見られるのだけど、これは結局60年代に見られた構造表現主義の焼き直しなのだろうか?僕はあの流れに有効性を認めたい(個人的にはタンゲの代々木体育館がそれこそ群を抜いているように思うが)のだが、モダニズムという括りの中で不当に切り捨てられてしまってはいないだろうか(この辺非常に不勉強)。形態を象徴性へと寄せすぎる(ポストモダン?)のではなく、方法論的なツールとしての「エマージング・グリッド」を使用しながら構造的に「正しい」地点で止める。ヴァーチャル・アーキテクチャーの議論の中で、アイゼンマンは自身の「回る建築」(もちろんプレゼンのみだが)に対して「どこで止まるのか」と聞いた浅田彰に何も答えられなかったのだが、この方法がそれに答えを出しているのだろうか。

見た目のキラキラした感じにどうも戸惑ってしまう。というか観ている間上のような疑問をずーっと考えていた。カップルが多かった。

そうそう、この展覧会は東京オペラシティでやっていたのだが、同時に山内崇嗣という人の展覧会もやっていた。→http://www.operacity.jp/ag/exh79.phpなんとも曰く言いがたいけどこれも考えさせられるものだった。時間が無かったから少ししか見られなかったが、そんなことよりカタログが欲しかった。