追記を

卒論に入れられなかったところ。

ミースのパヴィリオンは外在の文脈とのアナロジーで語られやすい。例えばテオ・ファン・ドゥースブルフの絵画とか。

なぜかというのはおいといて。絵画、哲学などの文脈でパヴィリオンを語るとき、その批評の対象はパヴィリオン写真から敷衍された一つのプログラムだったのではないか。ここまではとりあえず書いたのですが、軽めに触れる程度でした。

パヴィリオンの原理は「壁を荷重から自由にして、構造は柱にのみ任せる」というものであった。これはつまりアルベルティ以来の「柱と壁の弁証法」みたいなものを、つまり柱と壁にまとわりついてた象徴性を払拭することになる。おそらくここに外在の文脈が侵入する余地ができた。

この原理が「流れる空間」の発見を導く。この「Flowing」が冠せられる空間の時間性は、ギーディオンの時空間の発見が下敷きになっている。

空間時間建築〈第1〉 (1969年)

空間時間建築〈第1〉 (1969年)

ちなみに二巻本です。初版が1941年で、パヴィリオンが言及対象になるのは1956年の第三版から。ちょうどこの時期にミースの神格化&パヴィリオン評価の規範化が起こる。このパヴィリオンの空間に対する評価は時間性と結びつく。

このパヴィリオンは原理+時間に還元されてプログラミングされやすかったのではないか。つまりパヴィリオンからまったく別の次元に新たな空間が恣意的に捏造された感もある。

このへんの解釈としては

球と迷宮―ピラネージからアヴァンギャルドへ (PARCO PICTURE BACKS)

球と迷宮―ピラネージからアヴァンギャルドへ (PARCO PICTURE BACKS)

近代建築〈1〉 (図説世界建築史)

近代建築〈1〉 (図説世界建築史)

タフーリ。前者を卒論で挙げたが、そういえば後者でも言及してた。

あとはロザリンド・クラウス「グリッド、/雲/、ディテール」は日本語で読める。ロビン・エヴァンス、ホセ・ケトグラスなんかは英語。これは探しておこう。

この種の解釈とは関係ないが

Looking for Mies

Looking for Mies

は「表紙の写真のミースがどこを見ているのか」というシンプルな謎解きから展開しているようで面白そう。