試問とか

専門学校の進学が決定したり次に住むとこ(京都)が決まったり、口頭試問が終わったりした。昨日は追いコンもあって花までもらってしまった。枯らさないようにするぞ。

で、試問である。朝一で気合を入れて臨んだはな自分が午後からであることを知らされ、ちょっと戸惑いつつ、小一時間くらい厳しいご意見をいただくことができた。一章二章はいいけどあとがだめ。建築、写真、建築家、受容者という各項が一貫した視点から眺められていないのできわめて読みにくい。述語が分からない。読み手にやさしい文章をかけ。などなど。

ポイントとしては以下。大体のメモ。

1)個人的なねらいとしては建築をメディアとの関連で、メディア間のちがいも含めつつ、語ることである。その際に建築写真論に終始することはやめたい。先生にもご指摘いただいたが、ミースの困難さは、彼がピラネージのようにエッチングをつくるひととは別のあり方をしていることである。ようするにこれは作品として彼のプランが建っているということになる。顕現化の際の力動関係があまりに複雑化すること、これとメディア間のちがいをありのまま付き合わせようと思うと視点がブレまくるのである。というような感じで理解した。

2)タームとして「時間性」がどういうものか分からない、というご指摘があった。

3)建築写真はやっぱりコード化の結果だろう、というご指摘があった。


建築専門の先生から実体験を踏まえた(実際に建てられたりもする)ご指摘をいただけたのは興味深かった。写真とかパース(透視図)はプランがわかりづらい。模型とかアクソノメトリックとかのほうを制作に使用して、前者は説明のために使用する、というような区分は実際にあるようだ。ミースの図面を見返してみたが、確かにその痕跡が散見された。論考に際してこの区分がすこぶる有効だとは思わないほうがいいと思うけど。