イサム・ノグチ

イサム・ノグチ(上)――宿命の越境者 (講談社文庫)

イサム・ノグチ(上)――宿命の越境者 (講談社文庫)

北海道の「モエレ沼公園」紹介のつもりだったようだが、見せてくれた映像はなぜか「広島平和記念公園」についてのものだった。ゲストで呼ばれていたのは彼の伝記作家ドウス昌代。映像では彼の作品が紹介されるというよりも、彼が二つの国に帰属していること(父が日本人、母がアメリカ人)に帰結する苦悩を焦点化していた。

広島平和記念公園」は1950年に丹下健三が手がけたプロジェクトであるわけだが、この映像で一番のトピックとなるのは、ノグチが丹下に依頼されこのプロジェクトのために設計した慰霊碑案の翻弄のされ方である。つまり日本ではこれがアメリカ人の作品であるということのためだけに不採用となり、これをアメリカで持ち帰っても日本人の作品であるということのためだけにないがしろにされたということだ。

広島平和記念公園」で丹下がノグチに依頼した橋は実際に建設されているのだが、なぜか慰霊碑はNGだったようだ。事実、当時東大教授だった岸田日出刀の「原爆はアメリカ人によるものであり、イサム・ノグチ氏はアメリカ人であることを忘れるな」という旨の言が残されているらしい。沢田『ユカ坐・イス坐』でも記述があったが、戦後かつての「漸次イス坐に改めよ」という公的な奨励はいつのまにかうやむやになっている。この件から思うことは以下二点。まずこの一件は戦後日本における「日本的なもの」への希求が歪んで発露したものと捕らえるべきか、あるいはもっと私的なレベルであったのかということ。そして二点目は、かなりの国粋主義者だった(と記憶している)丹下のイサム・ノグチに対する好意的な配慮(にみえるもの)はなんだったのか、ということになっている(自分の中で)。