家族論

住宅は空間化された家族規範?

家族を容れるハコ 家族を超えるハコ

家族を容れるハコ 家族を超えるハコ

「空間の特定の配置にあわせて人間の生き方がつくられる」(山本理顕)とする建築家の「空間帝国主義」を上野さんが徹底的に批判するのだが、その理由はだいたいこうなる。今までの住居はこれからの家族を容れるハコとして有効に機能しないから。先日挙げた西川氏の四区分で最後がワンルームになっていたが、これは一方ではみんながシングルになりつつあるという状況をさしている。こうした状況下、現行のnLDKがもつ「タテマエ」の家族像と現実の家族像との乖離は広がるばかりである。事実夫婦はいつまでたっても同じ部屋で寝ることになっているし(実際学校でも大体の課題は夫婦一寝室で考える)、母=妻の「○○(働く、とかさ)する女」としての居場所が無い。住宅を、住宅の間取りを、ヴァージョンアップすべきである。

とはいえいきなり家族解散→みんな独立して生きていこうぜというワイルドなことにはならない。少子高齢化社会の課題として老人介護、育児保育をどうするかという問題が存在するからである。解決策としては以下。プライベートスペースを家族全員に渡すこと、これらをパブリックスペースへと開放すること、ただしその間にコモンスペースをかませ、家族を「ひとつの」コミュニティとして他の多くと等価な選択肢とすること。最後の提案はこれから先介護や育児のアウトソーシングなどがよりいっそう求められるときのことを想定している。いままで家族の内部にあった機能を外部に開いていく必要があり、それを組み込むのもコモンスペースの役割とすべきだ、ということである。

子供をゆがませる「間取り」

子供をゆがませる「間取り」

「空間帝国主義者」である建築家は家族というユニットを空間的に支配したがる。その極端な例としては上のような本がある。凶悪化する少年たち、実は間取りが悪かった、「いい」間取りに家族を閉じ込めれば家族みんながハッピーだ。昔の家族は大所帯でみんながふれあっていたから子供はみんないい子だったではないか。玄関から子供部屋が直通しているような間取りはダメ、コモンスペースはここではダメ、家全体が見渡せる場所にしなさい、さあふれあいなさい。こうした視点に欠けているのは、その間取りを使用する家族、そしてその変化である。

空間が住み方の規範となるという意見も、空間なんて必要ないという意見も、どちらも正しいと思うけどなんだか極端だなと思う。「選択があっての自己決定ならいい」という上野氏の意見は、究極的には空間が必要であることを物語っていないだろうか。個人的には、この二者の間を取ってみたい。例えば「かたち(形態)は機能を支える」という中谷礼仁氏によるform follows functionの解釈を参考にしてみる。空間の使用法に関して、そのかたちがある「からこそ」機能が限定されてしまうと考えるよりも、むしろそのかたち「によって」、ネガティヴな意味にせよ、機能を喚起させることも可能であると思う。空間への意味づけを内側からないがしろにする行為、そのひとつの契機として「収納」が考えられるのではないかとも思っているのだが、この件に関してはコンペ後にまとめてみようかと思う。