ネットカフェの難民化

ネットカフェを巡る規制の話ふたつ


1、火災をうけて:神戸より
個室型店の建築規制強化 全国初、神戸市が条例化

2、ネット犯罪を受けて:東京
ネットカフェ:本人確認義務付け 都条例案きょう採決、「難民」排除に懸念も /東京


これら規制に関して、主に2について反論がなされている。もっと言えば、1の規制は大したことないと思われている。これは2が東京都にあるネットカフェへの規制であり、東京都にあるネットカフェの量が日本でいちばん多く、ゆえにそれで困る人がとてもたくさんいるということをうけているはずだ。


ネットカフェ難民の問題は即座に対応すべき重要なものであるとは思うのだが、かといって根本的にそれがネットカフェの問題か、と疑問に思うところもある。とても繊細な問題だと思う。危惧することは、ネットカフェの名の下にその「難民話」しか語られず、これからもそうであるとなると、ネットカフェを巡る問題圏においてその空間性(MK)も同時に「難民化」してしまうのではないか、ということだ。その「難民化」においては、むしろ1の方が重い問題かもしれない。もちろんその空間を巡る政治性を抜きにしたまま、空間性だけをセレブレートすることはほんとうなのか、と問うべきでもあるだろう。それでも人とは異なり空間性に権利はないから、その窮状がうちがわから叫ばれることはない。法的に根拠づけられることもない。


社会的制約によって空間は変化する。これは仕方がない。けれども、そこにはひっそりと、ある空間性を「なきもの」とせんとする暴力性がついてくることがある。その構図はネットカフェに限ったことではない。セキュリティの名の下に排除されようとする「猥雑な」空間や、建て替えによって取り壊される古い建物だってそうだ。歴史的重要度が高い分古い建物はまだよいが、社会的に大した益をもたらさない「だろう」都市の隙間や「暗部」はどうだろう。そして今回のネットカフェもおなじだ。そういえばQueryCruiseで加藤政洋さんと町を歩く中で拾い上げようとしたものは、要するにこれら「難民」と化した空間性だった。


帰着するべきところがなくなってしまった「難民的」空間性が、都市を漂っている。問い。

  1. その「難民化」に抗するためにはいったいどうしたらいいのだろうか。
  2. 果たしてその抵抗は必要なのだろうか。
  3. それを前にして僕らはそれらへとどうやって向かい合うべきだろうか。
  4. そしてその向かい合った個別の帰結を、どのようにしてのこしていくべきだろうか。