団地の話

団地という物理的環境と、それがつくりだすこととなった「みんな」をめぐる対話。


団地の時代 (新潮選書)

団地の時代 (新潮選書)


ここで二人が喋っていることがらはものすごく広い。交通網と団地、ニュータウンと団地、共産主義と団地、いわば団地という物理的状況をめぐる問題がつぎつぎと問われていく。団地のかっこよさを再発見したり、ノスタルジックに愛でたりするのもおつだけどでもやっぱりちゃんと見つめないといけない問題と、すくいださないといけない可能性が、団地にはあるのだという話。

団地妻はアダルトビデオや官能小説の定番。会社員の夫が仕事に出かけている昼下がり、情欲をもてあまして不倫に走る。日活ロマンポルノの「団地妻 昼下りの情事」に始まる団地妻シリーズのおかげで、団地妻はすっかり淫靡なニュアンスをおびるようになった。(Wikipedia「団地妻」より


いきなりWikipediaから「団地妻」の項を引いてみた。このインビな言葉、あるいはそのインビさすら知らないという人もいるかもしれないが、がこのなかでひとつ話題にのぼる。団地妻はなぜ「情欲をもてあまして不倫に走った」のか。一言でいえば、姑がいなかったからだ。そして彼女らは暇だった。50年代の日本における団地の誕生、その後に続く60年代において、団地には老人がいなかった。


そしてもっと言えばここで「姑」がいないと言われているところがポイントなのだ。つまり団地では二世代が共に暮らさなかったということだ。例えばこれは2LDKといった間取りが核家族に向いていたことにも関係がある。「みんな」が同じような家族構成で、同じように子供を抱え、同じように年をとり、子供たちは出ていき、片や老人が片や空き部屋が残った。当然ながら団地妻の話はそれだけで語れるものではないだろう。でも一方でそのイメージが団地という物理的環境をこそテコにして生まれてきたという事実だって確かにある。新しい環境から新しい属性は生まれてくる。


団地と老人の話は現在にも全面的に一般化できる話じゃない。若い人で活気づく団地も今ではあるだろう。でもそうした例に目を向けることで見えなくなる問題がある。たとえば団地の老朽化とともに起こる建替えの話。現状立て替えとはつまりあたらしく高層マンションを建てることを意味している。より老人向けの建物ができるだろう、若い人が入居してくるだろう、こうした予測は一度入居者「みんな」が短い期間であれ立ち退きを余儀なくされるという事実を忘れている。そしてそのコストは意外と高い。高層にすることで団地という物理的環境やそのスケールがなくなることも問題だ。どう問題なのかは個別的具体的な住まい方のレベルで問われてくる。


本書は団地がいかに住まわれてきたかという具体性を語ろうとする本でもあるように思う。建て替え問題に対して、「老朽化」した団地に残る老人「みんな」で建て替えを阻止してしまったという例も出てくるのだが、二人の対話の中でその判断はきわめて説得力を帯び、同時にまたその後ろで鐘の音が鳴り始めるのも聞く。


団地とは建築群であり、それと同時にある環境の誕生でもあった。後者が何をもたらしたのかを考え、それぞれの鐘の音に耳をすませるにあたってひとつのきっかけをつくってくれる本だ。