先生

今日は午後からの授業。先月末に誕生日を迎えた友達に一週間くらい遅れてプレゼントを渡す。今回のチョイスはなかなか良かったと思う。自分も欲しいという意味で。なににせよおめでとう。

今日の授業では権力構造について先生-生徒間で比較的インタラクティブに取り組めた。先生と生徒の間には制度化された語りのあり/なしで一方的な権力構造が出来上がっており、その権力を先生が握っている、ということに気づかざる先生もいる。そうした図式というものは医者-患者、政治家-国民など生活のいたるところで垣間見られるとして、この話をキュレーター-鑑賞者へと敷衍して行きつつ、モダニズムからポストモダニズムにかけての啓蒙主義からその破綻へと、大きな物語から小さな物語の濫立という構図に沿って話が進んでいった。

少し昔の話なのであまり覚えておらず、正式なタイトルが思い出せないのだが、非常に背の高い先生(男)と生徒(女)の間の恋愛マンガを以前後輩から借りた記憶がある。途中まで面白かったのだけど最後になって非常にダレてしまった。話のスジが最後に行くにつれ非常に凡庸になってしまったということもあったのだろうが、制度としての先生-生徒といういわばキモになるべき関係性が終盤に行くにつれただのカップルとしての関係性にすり替わってしまったからではないかと今から思い返して思う。そういえば最後らへんは学校という場を離れ彼ら二人とその取り巻きの友人一同のみに焦点が合わされていたような気もしないではない。権力的上位者としての先生がその下位の存在である生徒に好意を抱くその際に、今度は見えざる抑圧として存在するべき権力場が希薄になってしまっている。最後の最後になって「先生という役割に固執していたから自分の本当の気持ちを押さえ込んでいたのだ、オレはバカだ」みたいな事を言って生徒にプロポーズして終わるこのラストシーンにおいて、これまでないがしろにされつつあった権力場の部分を取り出して切り札に使うその手つきに「なんだそれ」という冷めたリアクションをとっていたのではないだろうか。

これはコマ割りの比較的単純な分析によって解明できるような気がする。今度まんが喫茶にでもいったらちょっとみてみようと思う。タイトルは相変わらず思い出せないが。

先生ネタで最近思ったこと:
聖徳太子は10人の人の話を一度に聞けたというが、返答は一人ずつしか無理なはずだからそこにいかなるメリットがあったのか、ということ。
そして今思ったこと:
多分この疑問は投げっぱなしで終わる、いつものように、ということ。