コインランドリーと日常

今日は授業がなかったので朝から近所のコインランドリーでちょっとでかめの洗い物をする。時間を潰したかったのだけど小さいコインランドリーなので長いすが一つだけ、しかもそこにはおじいさんが寝ているので座れない。そとの縁石に座って本読みながら時間を潰す。

で、ちょうどそこに日曜版の新聞があったのでパラパラめくっていたら、飯沢耕太郎による安村崇の写真集『日常らしさ』への書評が載っていた。写真集に当てたコメントなので書評というのはヘンだろうか。コメントとかにしといたほうがいいだろうか。

曰く、どこにでもありそうな日常的なモノを写しているのにもかかわらずそこには気持ちが悪い「ズレ」が生じているようだ、とか、「日常」が「日常らしさ」に変質してしまった非現実感はグロテスクにさえ思える、とのこと。

杉本博司による「写真の終焉」後、つまり完璧に作品を構成し、長時間露光によってバルトが「プンクトゥム」とよんだ、撮影者も意図せざるまに写りこんでしまった部分、を一切排除して、写真が出来事を記録することをやめたその後にあって、安村は杉本同様(おそらく)の手法で「日常」を「日常らしさ」にずらして見せる。この際に浮き上がってくるズレのようなものは今後どのような可能性を提示していくのだろうか。

と新聞を読んでる間にも長いすに寝ているおじいさんはすわっと立ち上がっては洗濯機の様子を見に行ったりしている。おじいさんは上に地味なセーターを着ているが、したはムラサキのジャージだった、しかも蛍光の。「ズレている」と思ったけどそれとこれとは多分別の話だな、と思う。