バラエティ・リテラシーに対するTBS側の思惑と実践

今日は午前中の発表ゼミで終わり。

その後読書会したり本読んだりしていたのだけど、ふと昨日観た「リンカーン」について思うことがあったのでそれを書きとめておく、メモ程度に。


○あの番組は多数の芸人とダウンタウンの司会というパッと見華やかな形式であるが、その裏にかなりダークな顔を隠し持っているのではないか、ということだ。「他人のネタを考える」というコーナーではフォーマットにのっとった芸のフォーマットゆえの脆さのようなものまで露呈し、「30秒の面白エピソードを即興でつくる」というコーナーにおいては誰もしっかりとした話を考えられないわ、他人を罵るわ、誰も笑っていないわでかなりシュールなものとなっていた。さまーずは全体を通して窮屈そうだし。

フォローがないのだ。あの場には許しがない。あの場での芸人は自らを顕示し、他者の「すべり」に悪魔の笑みを浮かべるのである。そうして低みへと蔑まされた「すべり」がそれぞれに禁止の指標を携えている。こうした磁場としての「リンカーン」は例えば「エンタの神様」等に見られるようなバラエティ番組とは対極をなしているように思う。

つまりこの番組において「すべる」ということは必要悪、あるいはある目的への道具なのではないだろうか。そしてその目的というのは「他のお笑い番組への問いかけ」なのではないかと思う。他の番組における観者の役割は、受動的にテロップに出された文字を追ったり、それに笑ったりすることであり、そこにおける享楽的な「すべりに気づかざること、あるいはそれを知りながらも笑うこと」に対してのアンチテーゼとして「リンカーン」なのではないだろうか。必要悪としての「すべり」をさしはさむことによって、ストイックな姿勢というものを提示しながら見るものへと対峙しているのではないだろうか。

黒幕はダウンタウンだろうか、確かに「10年後のこの番組に寄せるメッセージ」として唯二否定的な答えを出していたのがダウンタウンの二人だし、かつての「ごっつええ」でもナイターによる放送中止に痺れを切らした松本が打ち切りを申し出たという背景などなどを鑑みても彼らのラディカルな行動は結構ありそうな話ではある。

いや、思うにこれはTBS側の思惑なのではないだろうか、「爆笑問題バク天」は太田光の独壇場とも言える無法さであり、他の番組と比較してもその存在は異様にうつる。ただTBS自らがバラエティ・リテラシー教育係としての役割を背負おうとしているという見方をするのならば、この独裁体制の提示という行為がある程度の理解の範疇に収まるし、「10カラット」の群を抜いた理解のしがたさが説明できるような気がする。「10カラット」に限って言えばその批判の矛先はおそらくフジの「第二のエポックメイクを狙った番組」だろう。TBSの思惑にダウンタウンが賛同した、という考え方をするのはあまりに単純すぎるだろうか。


ということ。「リンカーン」からかなりそれたが今そういう見方をしている。だとするとTBSにとって目の上のたんこぶは手放しでおまかせしている和田アキ子だろうか。案外あれはあれで反面教師的な役割を担ってくれていると見てそのままにしているのか。あるいはただの圧力か。

ちなみに「10カラット」にでてるハリセンボン箕面はそれなりにメイクしてそれなりの格好をして口をしっかり閉じていれば結構綺麗だと思う。森三中の村上もテレビで見るぶんには結構かわいいと思う。怖いので口には出さないが。