スタイルの選択

今日は授業がないので研究室でドイツ語を訳したりフランス語を訳したりした。

最近上がタイトめで下がゆるめという服装の子が多い。これは男女共に言えたことであって、男だったらタイトなデニムジャケットにダボっとした軍パンとか、女だったら上が今季流行りのヴィクトリアンなジャケットに大き目のスカートとかを持って来てたりする。このチョイスはラインとして綺麗という特徴もありながら身体的なコンプレックスの隠蔽としても有効である。というのは端的にX脚、O脚のことを指しているが、タイトなパンツを履く時に気が引けるこれらの身体的な「劣等」をこのスタイルは隠してくれる。

こうした心理的な要素はそれが絶対とは言わないまでもある程度その服装の選択を促している。とするとそうした潜在的なコンプレックスをその服装に顕在化させているという解釈はなかなか面白い問題を孕んでいるように感じる。鷲田らの議論を参考にするならばそれは逆にそれがファッションという制度による語らざる抑圧を象徴していると捉えられるだろうし、そのことはバルトによるファッションという制度の残酷さの開示をも連想させる。ただそうした語りを知らない/知ってる者としての彼らが自らのコンプレックスをいかように隠蔽しているのかというその結果としてこのようなスタイルの流行が存在しているのならば、逆にその流行自体が雄弁に彼らの隠したい「劣等部」を白日のもとに晒しているとも取れる。

ここからの語り方としてはこの「劣等部」に着目してそれがなぜ「劣等」であるのか、という点に議論の的を絞る、という方法が挙げられる。あるいはその「劣等」というものは本当の劣等部のさらなる隠蔽かもしれない、などというものだ。

そもそもの時点でそういったスタイルの流行が必ずしも僕の考えるような原因を持っていないということも考えられるが、僕も友達もある程度同じ事を考えていたようなのでこれは敷衍していけるのではと思ったのである。

追記
今日友達と久しぶりにミスドで喋った。何気なくおたがい話しているだけなのだがそういう雰囲気が実は心地いいのだということにじゃあね、と別れた後になって初めてしみじみ思ったりする。今回も然りで素直に物事が伝えられないというもどかしさは案外それと同じ根を持っていたりするのではないだろうか。