動物+スノッブ=オタク

以前金曜三限にコジェーヴを読んでいると書いたがそのつながりで「動物化」というタイトルにピンときて、さらに先生が授業中におすすめされていた、ということで東浩紀の本について焦点を当ててみる。

動物化」という語はコジェーヴのキータームであり、動物は人間と対比したときに、人間が他人の欲望を欲望するという複雑なシステムを持つ一方で、欠乏―満足の回路が一方通行的に閉じている、というもの(東はラカンの用語を用いて、人間の欲望を「欲望」、そして動物のそれを「欲求」とする)「主」と「奴」の弁証法が歴史を形成(発展)させるのだが、両者の関係はやがてこの差異が意味を持たない国家となることでその歴史を止揚する。そうした「歴史の終焉」というヘーゲルの終焉論、さらにその後人間はその存在をやめ、動物的な存在に戻るという「その後のヴィジョン」をコジェーヴが引き受け、そのヴィジョンを第二次大戦後のアメリカに見出す。ところがその後彼は三百年も前に自ら鎖国という形で歴史の発展をとめた極東の日本を発見する。そこで行われる切腹を無意味の反復、つまりスノビズムの一例として彼は紹介し、「歴史後」の人間には「動物化」あるいは形骸化した形式(トートロジー?)としての人間性である「スノビズム」の二つの選択肢しか残されていない、とする。

まさにその予言が的中したような典型がいわゆる「オタク」と呼ばれる人々である、というのが東の論の軸となる。彼は近代の「大きな物語」が、ポストモダンへの移行により、「萌え要素」の分析―アーカイブ化によって構成されるような「データベース」に取って代わられ、その「データベース」を周到に踏まえた形で二次創作される「シミュラークル」を「小さな物語」の位置に置く。そして彼は「オタク」を「データベース的動物」と呼び、「シミュラークル」(いわゆるゲーム作品)に感動し、その限りで一方通行的に欲求を充足する「動物」である一方で「データベース」水準で例えば萌え要素の分析―二次創作といった形骸化した人間性の維持を行うというコジェーヴの選択肢の両者を備えた人物として表象している。

東はこの著書で具体例を挙げたケーススタディを展開している。そのあまりに「行儀の良すぎる」一致にいささか首を傾げつつも、その時代との整合性にはおおいに肯首することができる。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)