で、今日は昨日のズレに関して。

姉歯さんだから「ズレる」みたいなオチを考えていたのに完璧に忘れていた。まあ今更な感もするからいいんだけど。今回の事件はその内部が建築の内部からズレている、ということなのだが、建築の内部とは、ということに関して考えた。

建築の内部とはクライアントの意向、建築家の手法、建設者の仕事、そして完成された建築物などが含まれる。そしてこれが内部として存在するためにある外部とは、内部が言語として伝達されるために存在するといえる。そしてそれは建築を受容する人々やそれを批評する批評家であろう。そういった意味で建築批評とは内部と外部の中間項とすることができる。しかしこの建築批評には何がしかの違和感が存在する。これは建築を批評する際の外的文脈への結び付け方に恣意性があるからである。例えばカウフマンの「自律」建築の概念と哲学的な「自律」の対応はよく論ぜられところであるが、やはりそこにはある程度の飛躍があるのである。ピュージンの「よき時代の様式はよき様式である」という点が示唆に富んでいる。

こうした文脈は今回の事件を語る際には度外視されている。これは今回の焦点がただちに「被害を受けたマンションの購入者」へと当てられた、ということにあるのではないかと思う。つまりこの事件は建築の問題なのではない。いわばそれは建築を背景とする事件の問題なのである。で、さらに言うならばこの被害者の保証の問題がこの事件の真犯人の措定へと移動し、それがバックグラウンドの闇の部分を照らし始めた、ということがこの問題を建築の範疇からズラしたのだといえる。

という風に消化している、僕は。来年の証人喚問、ポイントである。