タモリと曜日

昨日が木曜だったので必然的に今日は金曜日ということになる。正月休みに限らず長い休みが続くと曜日の感覚がなくなる。だから今日は木曜、とか今日は金曜、とか気をつけてないと分からなくなる。そう考えると授業のコマ配置が曜日の喚起に結構役立ってるのだなと思う。なんてことをつらつら思いながら「いいとも」を観ていたらタモリも曜日を間違えていた。テレフォンショッキングで鶴見真吾に「明日出てくれるかな」でいっこ、エンディングで客席に「明日も観てくれるかな」でもういっこ、の二箇所で間違えていた。すぐ後に「あ、来週か」と訂正していたが、しかも二回とも。なんということはないのだがタモリが焦っていたり間違えていたりするのを観るとラッキーだと思ってしまう。そういえば中野収の『メディアの快楽』にタモリ記号論的分析が載っているのだが難しすぎて皆目分からんらしい。どういうことなのか読んでみたい。

でよりによってタモリの次にロマン主義なんか持ってくるのだが、ドイツロマン主義の問題。相変わらずメモ程度に。ルソーの「ロマン主義的とは風景(自然)と魂の一致を意味する」という言を前提とし、そのロマン主義的なものを「感情あふるるもの」と解釈している。これは啓蒙主義における「悟性に則したもの」と対立する。遥かなもの、異なるものへの感情移入の能力、無限なるものの憧れ、そして個性の自覚などの特徴を啓蒙主義の流れに対峙させることができる。この個性の自覚を自我の拡大へと捕らえたフィヒテによる絶対的自我の創造的自由の哲学が一例として挙げられるだろう。

なのだがこれを建築にうつして考えてみるとなかなか難しい。一般的にロマン主義的建築とは上昇志向を象徴するような垂直性を備えた建物などのことを指すようだが、これは別にロマン主義に限ったことではなく、その前の時代に当たるとされるゴシック建築にも見られる性格である。ある様式に見合う/見合わない例があるということは、ある例を前提としてその様式が規定されたという逆の過程を想起させる。そうしたときに様式の非確定性みたいなものまで明らかになってくるということは言わずもがなだろう。そしてシンケルはロマン主義的といわれるのだが、それは彼の絵画をみると確かになんとなく分かる。それは彼の筆致などからやっと分かることだ。これをどう建築物そのものから捕らえるのかという点が難しいのである。まあでもとりあえずは書割を対象にするので目下の目標をちゃんと見ていこうと思う。