渡辺です

もうロマン主義はいいや。

で、今日は渡辺篤について。「建もの探訪」が昔から好きでちょいちょい観ている。今日もちょっと早めに起きたので観てみた。今回は雑貨屋の中年夫婦の邸宅。コルブのサヴォア邸とミースのファンズワース邸を足して二で割ったような家だなと思っていたらエンディングで渡辺篤がまったく同じことを言っていた。

建築へのアプローチの受容者視点からの言説に関して、渡辺篤の過剰なまでのよいしょを照らしながら見ていくと面白かったりする。「この位置にクローゼットですかぁ、はー、なるほどー、すばらしい」といってたりすると僕も「なるほど」と思いながらデッドスペースの使用法について考えてみたりする。ヴァーチャルアーキテクチャーという流れがあり、いかにして構築する行為のうちにヴァーチャルを具現するのか、という実践が一方にある。他方で渡辺篤はクローゼットの位置に感心し、出窓に驚嘆し、採光の工夫に感嘆し、褒めるところがないと犬やら子供やらを可愛がったりする。少なからず建築に造詣が深く、毎週お宅訪問している渡辺が褒めるところはあくまで受容者の観点からである。彼のこのポーズによって浮き上がってくる受容者の意図をできる限り思想的言説によって縁取ってみることの難しさが僕にとって結構面白かったりするのだ。両極がカタレプシーになることなくどう橋渡しするのかということ。

で、この番組において建築家の意図は比較的傍らに置かれ、それに対して家主がいかなる信念をもって建築家に対峙したのかにポイントが置かれているように思う。今回も寝室の窓に関して「私はここだけは譲れなかったんですよう」「なるっほどー、僕も大賛成」というやりとりがあった。最後のクレジットにはかかわった建築家は紹介されず、間取りと費用のみが出てくる。なんというかこうした家主主体の構図で見えてくるのは建築家と呼ばれる人々のうちにあるある種のヒエラルキー、あるいは大文字/小文字とでも呼ぶような差異なのではないだろうか。端的に言葉にしづらいが、できる/できないという差異に収まりきらない何かがあるのではと思う。まあ何を今更、という話だろうが最近その辺が結構目に付いてしまうのだ。

詳細はまた今度。なんだかへんなボヤきで終わってしまった。そういえば例の証人喚問が17日にあるようなのでそのときにもうちょっと具体的に書けたらいいかなと思っている。