ホロコーストは語ることができるか

今日は二限のみで発表ゼミ。ランズマンの『ショアー』をめぐる映像の表象不可能性について。

ショアー』の映像において証言とキャプションの付与されるかつてのホロコースト関連場所は今ではその面影を残しておらず、結局証言とキャプションのみがその映像とホロコーストを結びつける役割を担う。そうした意味で映像は曖昧=決定不可能である。一方でリアリスト的に映像のインデックス性に固執し、それを対象の実在を保証するものとする見解がある。映像の決定不可能性の観点からはこうした意見には首肯できない。さらにこの決定不可能性によって『ショアー』には「これはフィクションかも知れない」、「証言者自体虐殺されていたかも知れない」という「かも知れない」の位相が滑り込むのではないか。そしてこの決定不可能性がホロコーストの表象不可能性を示唆しうるのではないか。

発表者とは業後に話をして別個にわかったことがいくつかあった。以下僕の要約。ランズマンの映像中の証言をさして「生々しい」とする意見があり、それを前提にした議論がなされているが、そもそもランズマンの映像の決定不可能性のうちではそうした証言自体も偽「かも知れない」という疑惑をぬぐえないはずである。そしてそうした「かも知れない」の位相はホロコーストにおける「ユダヤ人」という恣意的な括り方に重なる部分もあるのではないか。こうした決定不可能性というものがこのホロコーストの恐怖を語りうるのではないか。

ということだったように思う。でもちょっとそこまでは発表ではうまく受け取ることができなかった。そして「かも知れない」の位相を「ユダヤ人」の恣意的な括りへと重ねるのはちょっとまだ言葉が足りないのかも知れない。あるいはすこし飛躍しているのかもしれない。属性の違いのようなものが。例えば証言を巡る「かも知れない」の位相と存在を巡る「かも知れない」の位相は映像の曖昧さと同等にするにはちょっとまだ道のりがあるのではないだろうか。

そんなこといってない、という苦情があったら急いで訂正します。おつかれさまでした。