動かざること場所の如し

今日は2限のゼミのみ。今日がこのコマの最終日。美術館と博物館の発表とあとは音楽にまつわる発表の二方。

で、前に話した「死に場所」と「葬式の場所」と「祭られる場所」について。直接関係するわけでもなく全然かすってもいないかもしれないが、今ヴィドラーの『Warped Space』収録の「X marks the spot」を読書会で扱っていてふと思ったのだ。

Warped Space: Art, Architecture, and Anxiety in Modern Culture (The MIT Press)

Warped Space: Art, Architecture, and Anxiety in Modern Culture (The MIT Press)

犯行現場において科学的に調査されて集められた証拠物件は法廷に提出されるが、その犯行現場の空間はあくまでも想像され、表象されなければならない。この点に端を発するバタイユの論や彼のオベリスク論を引きながら論が進んでいく。なんというか非常に要約しにくい。とりあえず今は参考文献を照らしながら読み込んでいくしかないのだが一応備忘録的に記録しておく。今やっているよということを。

そして先述の三つの場所だ。この場所の変遷、つまり人が想定する死者の移動が跡付ける空間の関係には何がしかのいわくいいがたいものを感じる。恣意的な「場所」の固定に包摂されないはずの空間というものがその「場所」によって表象されてしまうというような。おそらくこの辺は靖国神社の問題にかかわるのではないかと思っているのだがうまく話が進まない。そしておそらくこの話はヴィドラーの上の論と被るようで被らない気がする。