溶けるには時間がかかるということ

経済学部の知り合いがマルクスを読んでいないということを最近知ってそうなんだと思った。社会学の友人も『プロ倫』読んでないらしいし。そして自分はどうかと考えると僕もカント読んでないから人のこと言える立場にはいない。工学部のコにエントロピーを聞こうとしたら知らないといわれたけど。

で「溶ける建築」続き。

杉本が『建築』という一連の作品として提示した写真の被写体はその大半がモダニズムのものである。注目したいのはガウディの「カサ・バトリョ」、メキシコのバラガンも含まれているということだ。ガウディは割りとアール・ヌーヴォーの流れで語られたりするが、彼は20世紀初頭のスペインでのモデルニスモという運動の一翼もになっている。ヨーロッパでのメインストリームとしてのモダニズムの流れ、そしてそれが1930年代以降ジョンソンとヒッチコックによってアメリカへと輸入されたという流れ。後者の延長として語られうるアメリカの高層ビル建築史がシカゴ派の流れとどう合流したのかという歴史。そして支流としてバラガンがヨーロッパで見て知ることになるモダニズムを自国メキシコへと持ち帰ったという歴史。などなどが存在する。これらの流れをモダニズムを巡る多層的な時間として見たときにコルビュジエサヴォア邸から受け取られる「無時間的なモダン建築という形態」から逸脱する時間性がその裏に存在しているように思う。

こうしてスタイルとして形骸化してしまった建築を溶解するという杉本の狙いはポストモダンという建築が目指した「流動性」を新たな方向から可能にしているように感じるのである。そしてその溶解という時間的な作業があくまでも瞬間を固定化するとされている写真というメディアによって成されているという逆説がこの試行を特異なものにしている。彼の写真のなかで図と地の対立のうち図のみが浮き上がっているように感じるという点はモダニズムの普遍性あるいは無時間性などに関して語り得るように思う。

みたいな流れにするつもり。完璧にネタバレ。まあでもバレてなかったらどうかというと別にたいしたこともなさそうだと思うので書きました。