家族は何で似ているか

ヴィドラーの件で「家族的類似family resemblance」なる語が出てくる。もちろんこれはヴィトゲンシュタイン(今は濁らないでウィトゲンシュタインとするらしい、余談)のキータームである。要するに、集合全体に共通した類似点があるわけではないがなんとなく似ているという類似性を意味している。家族間で妹の目が父に、兄の癖が母に似ているという状況を踏まえて家族的といわれるわけである。ヴィドラーの文脈でこの語は近代前半の前衛芸術とポストモダン(近代後半)が抱える恐怖の類似性に対して使われている。

で、ヴィトゲンシュタインに戻す。この家族的類似なる語、ただなんとなく似てるということを示すためだけに使われるわけではない。それは以下の彼の考え方を強調する。つまり言語に何が共通の本質なるものはないということである。彼に従えば、語の意味とは語の使用である、つまり語を理解するということは語をいかに使用するのかという規則に従うことである。

ヴィトゲンシュタインによるソクラテス批判は興味深い。

ソクラテスが偉大な哲学者だとみなされていることは、前から私には不思議だった。かれが語の意味をたずね、相手がその用例を挙げることで答えても、かれは、それに満足せず、定義を要求するからだ。語がどう使われるか、その異なる意味は何かを、誰かが私に示してくれたとしたら、それこそ私が求める答えなのに。

こうした含意までヴィドラーの論で読み取る必要はないだろうが、注意していてもしすぎることはないだろう、ということで。ちなみに引用元はこちら

ウィトゲンシュタイン (現代思想の冒険者たちSelect)

ウィトゲンシュタイン (現代思想の冒険者たちSelect)