エクスキューズですが

この前の視文研で非常にズッコケた質問をしてしまったので今回はそのエクスキューズ。結局何が言いたかったのかについて書こうと思います。あくまでエクスキューズなので全体的にトーンは低め、小声っぽい感じでいきます。

で、問題としては現代の氾濫する広告群に囲まれるわれわれは「成熟した受容者」であるという発表者の意見に疑問を投げる形で現れる。端的に言ってしまえば広告という機構のうちに包摂されてしまう受容者はどうしてもその機構の「外」には立てないのではないかと思う。まあこれが「成熟した」という形容を妨げるものではないだろうし、門外漢の自分が「いや、まだ受容者は未熟なのだ」などと嘆いても仕様がないし別にそうしたかったわけでもない。ただこの広告という機構を考える際に「成熟した」とされる受容者がその「外側」からこの機構をとらえるかのような見方をしているとしたら、その視座さえも広告という機構に包括されざるを得ないのではないかということを言いたかったのである。メタレベルはないぞ、ということ。

このことは氾濫する広告群が反復を経てかつての図から地へと変化するプロセスをも暗示するだろう。そうした変化を示す例としてヨドバシカメラの広告を映画「宇宙戦争」の広告が「侵略する」という広告を例示したのである。こうした反復に囲まれる現代の受容者を「成熟した」と形容することは矛盾することではないだろう(これはちょっとイタいと思った、自分のことだが)。ただメタレベルに立った「つもりになる」視座が発展的な結果であるかというとやはり未だ疑問である。新たなフェーズが提示されたに過ぎないのではないか、と思ってしまうのだ。

とりあえずこれでおしまい。これ以上続けると混乱しますので。リテラルに「成熟した」というレトリックを取っちゃっている感が出てしまっていたら残念というほかないですが、「成熟した」というレトリックの安定性に対して少し疑問があったので質問をしたのです(おっと段々エクスキューズが過ぎてきましたね)。それが成功しているかは別の問題ですが・・・これからもめげずに質問していこうと思います。