ナンシーインキョート

実は僕も行ってきたのです。もちろんナンシー。知ったのが昼過ぎだったのと不慣れな京都でついたのは開始20分後。でもちょうど開始も20分遅れだったのでジャスト。ただ翻訳機がもらえなかった。ということでナンシーの基調講演は皆目分からず、その後の討論会に集中することに。ただナンシーの番になると常にインプットの情報がゼロになるのが辛かった。

テーマは「一神論と無神論」ということだったのだが、上のような不幸はあったもののかなり興味深いお話が伺えた。一神論と無神論との相違を原理としての理性に求め、その有無に焦点を当てる形式的な構図を当てはめるのではなく、この二項がいかなる形で結びついているのかを考えなければならないと言う点。原理としての神、あるいは否定神学の呈示する神の代理としての「未知のもの」。そしてこの「触れえぬもの」へ「触れる」という文脈における「触れること」。曰く「触れる」ということは自らの輪郭を描きながら、そこに自と他の断絶を生じさせる、というように。このメモには全く繋がりが見えないが・・・

こうした議論は自分の研究如何にかかわらず考える人である限りついて回る質のものである。もちろん僕にはキリスト教の伝統も、キリスト教にかたく結びついた形而上学の伝統ももっていない。ただこうしてリテラルに宗教と結びつけるだけでなく、現に存在している資本主義という「一神教」を目指したときに否応なくそのアクチュアリティが増してくるように思う。なんにせよ食指は動きまくりであった。