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「Space of Passage」を読む。きわめてざっくばらんにメモ。
19世紀「都市」と今日での都市とは異なる。それは例えばオースマン計画におけるような合理化の勝利による帰結、そしてそれに伴う透明性の出現である。これが彼の最終的な意見である。ヴィドラーの論文には結論めいたものがないというのはこれまでいろいろ読んできて分かったのだが、今回の論文はクリシェともとれるシェーマを最終的にポンと呈示し、それまでの文脈でそれに切り込みを入れるような感じになっているのではないだろうか。例えば透明性とはある意味で乱雑な都市を合理化するというプロセスを指している。一方でクラカウアーの「ホテルロビー」と言う概念が提示されるのだが、そうした公共空間だけど誰ともかかわらない、という希薄さにも似たものを指しているとも取れる。こうしたつながりが円を描くように近代化、メトロポリス、疎外という各点に連なっていくような感じ。使えるかもしれない。ただサラッと読んだだけなのでちょっとしっかり読まないとなんともいえないが。
ポリスとオイコスの関係性から否定の意味で生み出される「プライベート」は、いまやその二項対立性を否応なく強めている。あるいは別の角度から「公」を剥奪されているのだろうか。もしそうであるならば、かつて二つの集合素として考えられたポリス/オイコスとしての「公」/「私」は、その焦点が個に至っているということがいえるのではないか。ちょっと漠然としたメモ。
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