ヴィドラー『不気味な建築』の「透明性」、ロウ『マニエリスムと近代建築』の「透明性」を読み直す。ミースのパヴィリオンにおけるガラス使用を論じる際にちょっと考えなければならないポイントが幾つかあってそれを整理するため。ロウの「実」と「虚」の区分なんかは面白いし、それを傍においてポストモダン状況を論じるヴィドラーの手際も参考になるのだがそもそもガラスというマテリアルに備わっている物質性を見落としてはいけないと思う。相互貫入なんていいつつもしっかり囲われてる感じをちゃんと考察していこうと思っている。