アルスとビオス

岡田温司『芸術と生政治』の「ミュージアムパノプティコン」をさっくりと読んでみた。

芸術(アルス)と生政治(ビオス)

芸術(アルス)と生政治(ビオス)

これですね。

民主的なミュージアム全体主義的なパノプティコンにおける「まなざし」が実は同一のものなのではないかという問題提起から論が構成されている。

この論においてポイントとなるのは円・球といった建築的モチーフの問題と「プリミティヴ」の問題である。

前者においては18世紀の革命建築家ら*1のプランに見える円・球のモチーフが根源的に理性や平等の象徴とみなされる一方で全体性や支配、統一の象徴となっていることが挙げられる。つまりミュージアムパノプティコンはある種同じ根を持つのである。いわば「全体を見渡すことのできるパノプティコンの特権的な中心を、ミュージアムは多くの人に提供しようとした。」(p.36)

後者は「他者」への空間的な投影というよりも時間的な投影としての「プリミティヴ」である。つまり自分達のアイデンティティを創造的に構成する際に空間的プリミティヴが要請され、他方で超越的な位置に「自分達の祖先」を置きなおす。こうすることでそのアイデンティティの根源を保証させるのである。このプロセスが行われた場所がミュージアムであり、そこには自らの根源にたいする透明性の希求がうかがえる。


以下メモ。

他者の内在化の促進がパノプティコンのみならずミュージアムの教養装置的役割においても見出せる。こうして見る主体ももはや見られる主体であり、その意味で透明性への傾倒は単にすべてを見通したいという単純な欲求にのみ基づくものではない。つまりそれは透明性の埒内で自らの根源が確信できる限りにおいて、という条件をつけなければならなくなる。こう考えてみると透明性における管理(する/される)への欲望は単純に割り切れないのではないかと思う。

建築における近代の透明性の議論に関して参照できそう。大澤氏の『戦後の日本思想』で展開されている図式がここで使えるのではないかといろいろ考えている。あとシアトリカリティの文脈で考えてみるとどうなるだろうか。

*1:例えばルクー、ルドゥー、ブレなどが挙げられる。ところで、岡田さんはこの章でヴィドラーのルドゥー論(仏語訳版)を挙げているのだがvidlerが部分的にviedlerになっている。これは誤植なのだろうか、それとも別人なのだろうか(多分後者の可能性はなさそうだけど)