パース

先週は読書会の日くらいにしか更新しなかった。今日はユベルマンの読書会。結構なすべりっぷりだったのではちまきを絞めなおさないとと思う。

この論文はパースの議論を念頭におきすぎて考えるとどうしても無理が出る気がする。シミにキリストが見える/見えない、というレベルから離れて考えてみる、というのがまずはじめのテーマであり、むしろそのシミを可視的なものとするシステムへと目が移される。具体的にはシミを「インデックス」→「シンボル」と看做すわけだが、こうした流れを「イコン」から「インデックス」という方向に定めようとするとうまく納得できなくなる。そもそも参照すべき物語が存在するからこそシミにキリストを見る人が存在するのであって、こうしたあり方はパース的な意味における「イコン」ではないのではないか。

あるいは解釈項としてすでに存在する「見る人たち」の存在を無きものとしてとらえるべきか。あるいはそこに「イコン」はないとして考えるか。パースの議論はごちゃごちゃしているのだが、これは彼が三区分する概念がいくつかのレベルにありうるからではないかとふと思ってみる(かなりの程度で違うと思う)。理念的には「例の布」そのものは「イコン」たりうるが、実際的にはその次の瞬間には「聖骸布」となるし、全く別の「インデックス」となりもするのではないか。

というメモ。もっと勉強しなければ。