11月

もう11月ですね。

マンハッタンとヨーロッパについて

球と迷宮―ピラネージからアヴァンギャルドへ (PARCO PICTURE BACKS)

球と迷宮―ピラネージからアヴァンギャルドへ (PARCO PICTURE BACKS)

の「ニュー・バビロン」を読む。読みにくいので一読しただけでは内容がつかめない。マンハッタンにおけるスカイスクレーパー建設は商業ベースで急激に進んでいたのだが、そんな状況をすっ飛ばしてしまったヨーロッパにとってはかなりショッキングで、実際「トラウマ」になったらしい。1920年前後でのアヴァンギャルド雑誌(例えばミースも噛んでいた『G』なんかもそれに入る)で猛烈に取り上げられていたヨーロッパにおけるスカイスクレーパーはそれを象徴的に示している。ただ文化的コンテクストが異なっていることから当然のことながら両者の解釈にはかなり幅があった。とりわけヨーロッパにおいて、例えばワイマール・ドイツの社会主義政策に取り入れられることで、スカイスクレーパーは都市計画の要(?)としてとらえられていたようだ。アメリカでのスカイスクレーパーは集団的神話として、個別的な建築それ自体よりも現象として包括的に語るべきだろう。ではミースはどうか、というのが問題。彼自身もそうしたドタバダ劇から自由ではないだろうけど、タフーリが注意しながらミースの例を挙げているところを読むとどうにも気になるのである。あとはアメリカ人ライトの存在、これも気になる。コルビュジエコールハースがいい「ボケ」役にしたてあげてくれている(『錯乱のニューヨーク』)。でも要再読。

あとは1929年の展示用パヴィリオンについて。Drexlerの本にドローイングと写真二枚が載っていた。ブレークの本の二枚とあわせて写真はやっと四枚に。多分シュルツのにも一枚ぐらいありそう。そしてこの写真がほとんど一貫していないのが不思議だったのだが、どうやら展示は5つほどのセクションに分かれていたらしい。しかもミースが建設に噛んだ展示用パヴィリオンの他に、カダファルクというカタロニアの建築家が第一次大戦中に設計したいくつかのホールをドイツの展示用スペースにしていたらしい。セパレーションとしての白い壁からイオニア式の柱頭が見えている謎の写真の意味がやっと分かった。それにしてももうちょっと資料(写真)が欲しい。ドローイングはほとんど備品の図面なのであった。