堂島あたりで

今日は読書会と展覧会。堂島ビルのおっしゃれなカフェで、ゼイゼイしているキリストのアクソメ図(十字架とひじの角度がいちいち書かれている!)を見ながら議論をしていた。展覧会は国立国際の「エッセンシャル・ペインティング」展を見学しにいったのだが、小川氏の「いるべきひとがいない」シリーズにうっかり笑ってしまった。

前回のマンハッタン論の続き。割とながーいメモ。

マニエリスムと近代建築―コーリン・ロウ建築論選集

マニエリスムと近代建築―コーリン・ロウ建築論選集

の「シカゴ・フレーム」を読む。このトピックに関しては、とりあえずタフーリ&コールハース&ロウのあたりを考えていこうと思う。それにしてもロウの語り口はいつも腹に一物を抱えているようで読みづらい。でも図式としてはとりわけ簡単で、アメリカでの「事実としてのフレーム」(鉄骨の骨組みとか)に対してヨーロッパでの「観念としてのフレーム」を持ってきている。カジュアルに言うと前者はビジネス、後者はイデオロギーとなろうか。

土地がグリッドに分けられたのが19世紀初頭で、スカイスクレーパーにとって不可欠であるエレベーターの発展は大体19世紀中ごろあたりからはじまる(エレベーターという原理自体は紀元前からあったらしい)。一階一階の等質性の概念はエレベーターの発展と密接に関係しており、上昇するモメントと同時に、各層の無限に広がる水平性という問題が生じていたのではないかというところは僕にとってのポイントかも。いわばユニヴァーサル・スペースの原型がアメリカの「シカゴ派」によって予見されていたわけだが、彼らにとって概念としてのユニヴァーサル・スペースなんてどうでもよくて、とにかく土地の効率的な使用が第一命題だったのである(ううむ、なんだかロースのダンディズムを読み替えたような話だ。「その馬具職人はモダーンな馬具を作ろうとしたのではない、彼はただの馬具を作っていたのだ」*1みたいな)。

議論のこうしたラインは大体三者とも同一なのである。ここで考えておくべきなのはロウが「シカゴ派」とライトとの相違を分析していることである。端的に言ってライトは「空間」に対して敏感だった。これはライトの後のプランからの逆読みの感もなくはないが、ただアメリカの1900年前後を舞台としてこの二者による対立があったことは注目すべきだと思う。当時のミースがライトを知らなかったわけはないし、ミースにとってライトの解法とアメリカの状況の軋轢がどう映っていたのかを具体的に考えるべし。

あとはやたらと長い迂回になるが、1917年ロシア革命後、集合住宅が社会主義政策の一環として受容され、共同住宅という形で計画されていったことにも注目。ワイマール・ドイツも同一の流れをたどっていったことを考えると、ワイゼンホフ・ジードルングのイデオロギー的側面が浮かび上がってくる。しかもそのプランとしてユニヴァーサル・スペースが使用されていたことももう一回考えておくべきだと思う。このプロジェクトが1920年代後半、ヨーロッパの文脈でスカイスクレーパーの形態への着目も1920年代である。ヨーロッパでのスカイスクレーパー受容はたぶんに社会変革の一手段だったはずである。

*1:ロースの著作が読めるサイト見つけました→ココ:http://www.geocities.jp/mickindex/loos/idx_loos.html