絵画とドローイング

集中講義さいごの四日目。

昨日は西村先生を囲んでの飲み会。近日先生が刊行されるご予定の著書の話(「来年には絶対出します」)や入学試験で先生の著作から抜粋がなされるときのお話、次回のネタ等々たくさんお話していただいた。参加できてよかった。

で今日は最終日で午前中講義、午後テストという時間割だった。先生の講義は要約するのがほとんど不可能なので、むりやり自分の研究にひきつけながらメモ。中世から近代への変遷として、多元位相絵画から単一位相絵画への移り変わりが見て取ることができる。前者に関しては異なる時間を同一の絵画平面へと定着させる「異時同図法」とのつながりを見て取ることができる。後者では線遠近法とのつながりが挙げられるだろう。遠近法における消失点は観者の「正しい」位置を要請し、それが絵画平面の外に彼を立たせる限りにおいて、観者は常に外の人となる。他方で、絵画平面上に感情移入するべき契機となる何者かが存在するとき、観者の位置はおのずと絵画の中へと入り込んでいく。

こうした構図を考えたとき、建築におけるドローイングが比較的近接した関係を持っているように思われる(とりわけ立面図。ドローイングといっても広いし)。というのも、かつての(パラーディオなんかがそうなのだが)立面図は特定の点から見た遠近法が全く使われておらず、きわめて理想的な姿で描かれている。パラーディオのような建築物だとほんとに真四角の立面図になるのだ。これがだんだんパース(遠近法)を利かせた奥行きある立面図になっていくのである。ミースの立面図なんかは、例えば「ガラスのスカイスクレーパー」を見ると、ほとんど絵画である。設計プロセスという絶対的準拠枠に奉仕するドローイングが、近代になってそれ自体で何かを語るものとなっている。おそらくこの萌芽となるのが、18世紀のピラネージの版画にあたるのではないかなと思う。遠近法を少し崩しながら、イリュージョニズムの効果をうまく脱臼させている。こうした野心的な試みは同時代的な革命建築家の「ペーパープロジェクト」へとつながっているように思われるし、シンケルのロマン主義的絵画にも見て取ることができる。中世からルネサンスへの流れにおいて絵画が経験した「聖なる物語」からの自律は、おそらく部分的に建築にも見て取ることができる気がする。時代はかなり異なるけど。

自律した(ちょっと不安なのだが)ドローイングに何を語らせるのか、という点がミース研究において重要な点である。すくなくともこれはミースだけの能動性ではない。フィリップ・ジョンソンのように「近代建築」を大文字の建築にしようとしていた人たちにとって、ミースがこうしたドローイングに語らせている内容を恣意的に読み替える必要があったはずだ。ドローイングというメディアはこれらの者達の交差点になっていると思う。

まーったく関係ないのだが、神戸にはパラーディオがあるらしい→http://palladio.kobe.fm/