巨匠というか名人
五十嵐太郎さんもどこかで言っていたのだが、日本建築学会ではいまだにミースに関する論文が毎月一本くらい提出されるらしい。60年代の近代建築批判から70年代の別文脈への以降(ポストモダン)に従って、日本でのミース熱は冷めていったようだが、これは「豆腐に包丁を入れたような」ミースの建築が近代建築とほとんどイコールで結ばれていたことを意味しているのだろう。モダニズムの超克とは結局ミースから離脱することでしかなかったのではないかと思っている。そして80年代後半から90年代初頭あたりでポストモダンの火も消え、パヴィリオン再建に端を発してミースのとらえなおしが始まる。という感じで個人的には考えている。
- 作者: 山本学治,稲葉武司
- 出版社/メーカー: 彰国社
- 発売日: 1970/05
- メディア: 単行本
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話を戻して。日本建築学会の論文ではバルセロナ・パヴィリオンに関しての論も少なくない。設計期間の短さから資料があまり残っていないが、どうやらパヴィリオンにはのべ5枚の平面図が存在しているらしい。その5つの平面図からきわめて実証的にプランの発生論的な分析がなされている。
上は高砂・辻「バルセロナ・パヴィリオンの空間構成要素の形と配置について」からの図版。他の論文でだが、インターナショナル・スタイルにおける規則的リズムの数的関係を提示したものがある。これはつまり付加的に外延を伸ばしていくことができるということであり、その限りで「部分から全体」という流れが見て取ることができる。下の図は『インターナショナル・スタイル』には載っていないミースの「コンクリートのオフィスビル計画案」。外延は立地面積にあわせて好きなだけ広げることができる。当然のことながら内包は増えていく。この単純な法則は1920年代あたりの、とりわけドイツにおけるスカイスクレーパーを巡るユートピックな考え方の土台になっているようにも思う。
一方でパヴィリオンは、まず全体の枠組みが決められ、その中でいかに構成要素を配置していくのかという幾何学的関係(つまり「全体から部分」)が存在している。こうして考えてみると、ジョンソンとヒッチコックが『インターナショナル・スタイル』にパヴィリオンを「異例」として掲載した理由がなんとなく分かる。
そしてこうした実証的な結果を見ると、アドホックに見えるパヴィリオンも結構綿密に組み立てられている。おそらくこの言い方は正確ではなく、実際工法としてはアドホックなのであり、それを補って余りあるほど現場での「ツメ」が綿密なのだ(と思う)。平面図を年代順に追っていると急に柱が出現するため、はじめから柱と壁の関係はきっちり決まっていたわけではないのに(ではなぜ「明快な原理で建てられている」なんていわれるのだろうか)、それに伴う諸々の変更へのフォローがきっちりなされている(グリッド調整とか)。多分ミースのすごさはそういう「名人」的なところであって、そういう彼のイメージがいまだに論考を提出させるのだろうと思う。そして僕もその一人である。