構築と反構築

1929年の「バルセロナ・パヴィリオン」平面図はどことなく1923-4年の「煉瓦造田園住宅」案のそれとよく似ている。
 
一見するとよくわからないが、前者(左)の離散的な壁のコンポジションが後者(右)のジグザグな壁の配置と親縁性を持っているようにも感じられる。1920年代前半においてミースは5つの計画案(この田園住宅案も含まれる)を提示するのだが、それらすべては雑誌や展覧会において掲載されたり展示されたりしたものである。ミースのキャリアを統辞的に語ろうとする論者らにとって、この5つの計画案は後年の作品のプロトタイプとなるべきものであり、きわめて価値の高いものとなっているようだ。

上は「煉瓦造田園住宅」案の透視図。実際パヴィリオンの壁面配置がこの田園住宅案の発展形であるという読みは結構なされているのだが事後的になされた深読みなんじゃないかと思う(実際似てはいるが)。その際の相違は端的に言って「箱」かそうではないかだ。

つまりミースのパヴィリオンにおいて建築史的に見たとき重要になるポイントは、離散的な壁配置の帰結としての「箱の解体」となるはずだからである。柱に荷重を担わせるという原理も、自由に配置できる壁の発見も、結局はこの「箱の解体」に帰着してはじめて「新しい原理」となる(これがないとコルビュジエの「ドミノ」と同じになってしまいミース自身が語った「新しい原理」とはならないのである)。

ちなみにミースの建築史においてパヴィリオンは大体「ワイゼンホフ・ジードルング」(1927あたり)と「チューゲントハット邸」(1929から30あたり)の間に位置する。
並べてみた

箱が→解体して→また戻る


近代建築のシンプルさはこのジードルングで打ち止めになっていた(はずだ)。そう考えるとパヴィリオンはそのラインを一歩突き抜けてしまったことになる。この作品はそういう意味で他の諸建築から断絶している感があるのだが、これはパヴィリオンの構築しながらも解体しているという不思議な両義性によっているのではないかと考えている。