パヴィリオンの位置と疑問


昨日のエントリで1929年のバルセロナ万博には二種類のドイツ館があったということについて触れたが、その二つがかなり離れたところにあったようだ。上の写真は入り口付近で、このフレームの右下の方に昨日挙げた「AEGパヴィリオン」の白い箱が見える。

ところで、この万博の展示方法は一国一パヴィリオン制できっちりしていたわけではなかったらしい。「繊維部門」「工業部門」などいくつかのジャンルに分けられ、そのジャンルごとに一つの建物が割り当てられていたようだ(これって今でもそうなのだろうか?)。

上の写真はその一例である。この万博には基本的に古典主義的な建築物が多いように感じられる。ライヒがデザインしたこの展示スペースも、ホワイトキューブ的に見せている白いパーテーションの上には列柱が見えていたりする。そう考えると「AEGパヴィリオン」のまったき箱は結構印象的だったんじゃないだろうか。と思うのだが、冒頭の写真の位置から考えるとよく見えなかったのかもしれない。ちなみにこのパヴィリオンと1926-7年あたりにミースが手がけた集合住宅にはかなりの親縁性がうかがえる。

にしたってそもそもなぜ二つのパヴィリオンを離して建てる必要があったのだろうか。「バルセロナ・パヴィリオン」の建設場所はミース自身で決定したという記述はあるにはあるが、全体的に見るとちょっと異質ではないか。下心ありで邪推すると答えは多分、様式的な建築を枠に収めないで写真を撮るのに好都合だったから、となる。実際にはちょっとうつっちゃっているのだが、これはMoMA版では消されている。そしてこの消されたヴァージョンはジョンソンのカタログで使われたものである。おそらく真相はわからないので触れる程度にしておこう。