建築フォトモンタージュの曖昧さ

所有を意図された建築図面とはおそらくスケッチやドローイングよりも、完成予想図としてのレンダリングフォトモンタージュのことだったのではないだろうか。そう考えると、建築家の側に設計という文脈と権利上つながりながらも独立させるような意図が生起していたのではないかと思う。例えばミース1921年の「フリードリヒ・シュトラッセオフィスビル」計画案には3種類のフォトモンタージュが存在する。

  

お分かりいただけただろうか。特に1枚目と2枚目の違いはすごく微妙。ただ当時のミースにとってガラス面の反射効果なんかは透明性という象徴的な意味合いよりも重要であった。ちなみにミースはこの旨の文章を1922年にタウトが発刊した『曙光Fruhlicht』誌に同計画案(おそらくドローイングのみ)と共に寄せている。そう考えるとこの微妙な相違もある程度「狙った」ものであると考えた方がいいかも。

これら異なったフォトモンタージュのどれもが設計という文脈と権利上つながっており、なおかつそれがアンビルドで終わった(意図的にアンビルドにした?)ということも考えると、この3者はきわめて等質的なものとなる。ちなみに3枚目は土地を恣意的に変えたわけではなく、アングルを変えただけである。ちなみに平面図は以下のようになっている。

気になるのは、同プロジェクトでは「フリードリヒ通り」という特定のサイトが決定しているわけだが、規定のないプロジェクトにおいて使用された土地の写真は「それじゃなくてもよかった」という選択可能性をもっていることである。かといってこれが必ずしも「ユニバーサル・スペース」へと繋がるわけではなさそう。ベルリンダダ・フォトモンタージュとの相違として地が地のまま残っているという性格がこの建築フォトモンタージュに存在しているのならば、ここに加えられるレタッチとしてそれをみなして考えてみても面白いかもしれない。