縮小と拡大

フォトモンタージュにおける地の写真と図のドローイングは、外観透視図の文法で構成されている。つまり描かれた面と等価であると考えることもできる。そうすると未来に向けて作られた画面にしがみつく写真の不定過去性によって、全体的な自制が歪曲されるのではないか。ということで今ヴァリアントを考えながらいいのを探している。「未来におけるかつて」とか「未来に身をおいた上でのかつて」とか「かつてにおける未来」とか。写真の時制と建築という機構のもつ時間性とが絡まりあう、というのがポイント。制度に関する問題なのであろう。

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

「写真小史」での「建築は写真で撮ったほうがよくわかる」という旨のテーゼが気になる。「誰もが気づいたことであろうが」とか「建築はいわずもがな」という挿入句がダッシュで括られているところから、なにか読めないものか。

ちなみに続く文章でベンヤミンは「縮小」に触れている。たしかに写真は建築物を縮小できる。

でもこの1947年にMoMAが行ったミースの回顧展の写真を見るたびに、敢えて拡大する、ということについて考えずにはいられなくなる。この写真、おそらく3メートルくらいの高さがある。