ちょっとした仮説として

いつのまにか引用が多くなってしまった文献。

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

建築をめぐってベンヤミンが「慣れ」とか「触覚的」というように建築の受容形態を規定している。これは「礼拝」という「視覚的」な受容形態とは異なるものである。そしてそもそも建築は礼拝の場を提供することはあっても、それ自体が礼拝されたことはないはずだ。墓とかモニュメントは、という疑問はあるがとりあえず無視《純粋な建築といえるのは墓とモニュメントだけだといったロース氏を裏切ることになるが。》。だからアウラの凋落によって「展示価値が礼拝価値を押しのけはじめる」というのは建築には基本的に関係ない。

でもアウラの凋落によって起こったことは、要するに対象をめぐる云々ではなく大衆の知覚様態の変化であったはずだから、それこそが問題になる。

ところで、おそらく建築が複製、というか三次元から二次元に移し変えられるのはおそらくルネサンス以降で顕著になっただろう。その意図としてはかつての建物からその文法を抽出することが第一義だっただろう。二次元へと置き換えられることで分析することができ、分析されることによって優れた建築が体系化される。ただ同時にこうした建築物の二次元的な複製は対象を縮小することになるから手元におくことができる。複製が増えていくにつれ、結果的に対象となる建物の「作品」化が起こったのではないだろうか。

そして写真の台頭によってアウラが凋落することによって、オリジナルとしての建物とそれを撮影した写真とが接近する。すぐ分かることだが、この構図には飛躍が存在する。ただ、だからこそ20世紀半ばの「建築を空間から読み直す」解釈が爆発的にヒットしたのではないだろうか。

なんというか建築をめぐるどうにもねじれた感じに頭を抱えているのである。