章立てを見返してのメモ
どうも「よし田」は今日で今年最後らしいですよ。30日から来年4日までお休みのようです。
- 作者: Corinne Diserens
- 出版社/メーカー: Phaidon Press
- 発売日: 2006/02/01
- メディア: ペーパーバック
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とまあ素敵な写真集にうつつを抜かしているわけにも行かない現状ではあるが、とりあえず章立てを見返しながら問題のある箇所(全部だけどそれは言わない)を抜き出していく。その後ざっくざっく斬っていこうと思う、マッタ=クラークばりに。
A:建築におけるドローイングのあり方
B:建築雑誌の登場と写真の発生とで時期が重なっていること
C:建築雑誌を契機としてドローイングと写真との関係がどうなったのかをみること
D:写真の持つ時間性が建築の持つ時間性にどうコミットしているのか
E:これらをミースという文脈の中で模索していくこと
こうした事柄が今のポイント。ちなみにアルファベットは章立てとは関係ない。Dが曲者。昨日の「複製技術のはじまりによって、「有名建築物」とか「有名建築家」という概念が相対的に浮上した」という指摘は実はそれほど新鮮ではないようなので、そういうものとして考えていこう。ベッタベタだがミースのパヴィリオンは「複製による有名性の獲得」原理主義的様相が極めて濃く出ているように思う。
パヴィリオンには人気(ひとけ)がない、これはミースの思想をよく表している。とはよく言われるが、上のミースによるドローイングは実際そうでもなかったんじゃないの、と思わせる。言説とイメージのズレは1920年代の彼の論考と提示するドローイングとの差異からもうかがうことができるのだが、この際の奇妙なイメージメイキングは彼の与り知らないところでブクブク誇大化している。そこに加担する要素としてドローイング、写真というメディアをきっちり分けていこう、というのが今のところのねらい(すぐに変わるから頼りないが)。