研究会と課題
今日は京都で視文研。思いついたことを以下つらつらと。
(アメリカにおける)芸術と政治イデオロギーの問題に関しては建築でも当然論じるべき対象である。1920年代のドイツ建築界がアメリカでの摩天楼を社会変革の道具として用いようとしたことは前から細々とエントリを挙げてきた。積層する同一平面に新たな土地を白紙状態(タブラ・ラサ?)で見出すというのがそれである。アメリカにおいては大衆による経済的欲望の具現化として毎日「より高い」高層ビルが建てられてきた。この辺は高層ビルの設計者の名前が高層ビルにあまり付着していない(あまり知られていない)という結果をもたらす。
他にもドイツにおいて集合住宅が社会主義イデオロギーによる「すみわけ」の道具として使用されたことも考えられる。都市部の資本主義と郊外の非資本主義という対立構造を集合住宅という「労働者のための住処」によって線引きする。この二項は厳密に精査されるわけではなく、資本主義に対する反動として集合住宅がユートピアとしてとらえられていたと考えられるだろう。
この辺に関してはいつもお世話になっているタフーリが論をなしている。
球と迷宮―ピラネージからアヴァンギャルドへ (PARCO PICTURE BACKS)
- 作者: マンフレッドタフーリ,Manfredo Tafuri,八束はじめ,鵜沢隆,石田寿一
- 出版社/メーカー: PARCO出版
- 発売日: 1992/07
- メディア: 単行本
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フォトモンタージュに関しては絵画面に写真を部分的に貼り合わせるという技法が紹介されていて面白かった。面積としては絵画>写真で、これはミースのフォトモンタージュにおける写真>ドローイングとは対照的だった。ポイントとしては画面の統一性が損なわれていないことが挙げられるだろうが、これはつまり支配的になる基底面が存在しているということになるだろう。この帰結としてジャーナリズムやプロジェクトというコンテクストがそれを受け入れる土台となる。そこでは面積の大小が意味論的に考えたとき逆転するような現象が起こるのではないだろうか。つまりミースのフォトモンタージュでは面積の少ないドローイングの方が画面全体の意味としては主要になるということ。この支配関係に関してあまり卒論では考えられなかった。ということでこれは課題です。