都市は「ひとつの」ツリーではない

結局中谷さんの『セヴェラルネス』買ってしまった。やっぱり面白い。

とりわけ興味深かったのはクリストファー・アレクサンダーの「都市はツリーではない」におけるツリーとセミラチスの見方である。今まで二項対立的に語られ、ツリーよりセミラチスのがよい、でもセミラチスは計画的に作りえない、というような区分がなされてきた。ところが中谷さんは、柄谷行人がすでに述べているが、セミラチスとはツリーが重なってできるものであるという定式をなす。そうすることによって、ツリー要素の交わり方によってツリーのヴァリアントができ、それが絡み合うことによってセミラチスが作り出されるとしている。ちなみに柄谷の指摘はここでなされている。

定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築

定本 柄谷行人集〈2〉隠喩としての建築

遊ぶところは「遊び場」以外にもつくりうるし、それは例えば道路でも可能であるのだが、ちょうどそのとき道路工事していれば別の場所に移さざるをえない。こうした時間的な変化もツリーからセミラチスへの移行の契機となる。

日本デザイン論 (1966年) (SD選書〈5〉)

日本デザイン論 (1966年) (SD選書〈5〉)

このあたりの話は建築史家伊藤ていじが述べる「界隈空間」との類比を見出せるかもしれない。新宿界隈、三宮界隈、というように、物理的にはうまく区分ができないような、人の動線から導かれるような空間性がそれである。ちなみに伊藤ていじは昔、磯崎新らと八田利也というヘンなペンネーム(はったりや)で一緒に活動していた。

当然のことながら、「ユーザー」を未知数化してそこに可能性をゆだねることはあまり好まれることではない。それでもこの「セヴェラルなツリーによるセミラチス」つまり「都市はひとつのツリーではなく、セヴェラルなツリーでつくられるA City is Not A Tree」という読み方は今まで退けられてきたものをもう一度考え直すための契機となる。かなりのアクチュアリティを持っているはずだと思う。